44日目 1月21日(木) ウシュアイア 入港15:30 日出5:25 日没21:54
寄港地情報入国審査言語英語通貨港の位置ツアー発時シャトルバス
-スペイン語少しアルゼンチンペソ中心部ツアー設定なしサービスなし
航海情報天候気温正午位置風向風速ジョギングデッキマシン陸上合計デッキ累計距離累計
くもり10.5℃54-56S 067-06W東南東9m/s-6km-6km701周345km
船内情報講演等イベント他船の揺れプール
月尾嘉男 「南米大陸南端を通過した英雄」-ほとんど揺れないノーマル
ダイニングランチ(6F)ランチ(11F) リド夕食ドレスコードディナーギャラクシーラウンジ(19:00)
釜揚げうどん洋食湯豆腐セットカジュアル和食ウシュアイア ローカルショー
8時の目覚ましでゆるゆる起床すると、外は曇っていて、ウシュアイアの天気予報は曇り時々雨と表示されてるからか、全くテンションが上がりません。
GPS図によると、本船はフエゴ島の西の端を回って、ビーグル水道を目指していました。入港時刻は日程表上は14時だったのが、プンタアレナスの出港時刻が繰り上がったことで13時になり、それがマゼラン海峡回りに変わって遠回りになったことで18時の予定です。

食事は11Fで、夫はちょっと元気がありません。一方私は好物のガモン(ハム)ステーキや生ハムをモリっと取って元気です。いつもはないスパニッシュオムレツが美味でした。

朝の航海情報によると、本船は昨晩来順調に距離を進められたので、ウシュアイアの入港予定時刻は少し早まって16時半頃になりそうとのことでした。

ゴハンが終わって部屋に戻ると部屋係のジェーンさんがちょうど掃除中だったので、リドカフェで過ごしていたらあっと言う間に10時になってしまいました。10時から始まる講演「南米大陸南端を通過した英雄」は部屋のテレビで見ることにしました。
スペインとポルトガルで世界を二分して権益を山分けしようとしていたことや、遅れを取ったイギリスが焦っていた、等西洋人のえげつなさが良くわかる内容で面白かったです。それに加えてギャラクシーラウンジに見に行くよりも、テレビの方が断然見やすいこともわかったので、これからはわざわざ足を運ばないかもしれません。
ダンスはついにワルツを最初から通しで1周する運びとなりました。今までパーツを少しずつ教わったのを繋げるだけとは言え、混乱する人が出て大変そうでした。教室のあとの居残り練はいつもより人が多く感じました。
なお今晩ウシュアイアから86名もがチャーター船の南極クルーズ12日間に出るとのことで、ダンス教室はゆっくり進めています、とわざわざ先生が宣言していました。「自分がいない間は先に進めないで欲しい」的なリクエストが多数あったと思われます。
部屋に戻ると左舷の陸が大分近寄って来ていました。後でGPSロガーのデータを見たところ、10時50分頃ビーグル水道に入っていたみたいです。
両側の様子を見に12Fに行ったところ、既にアルゼンチンの国旗が掲揚してありました。
夫が今回のクルーズで投稿したブログ記事で、プリントアウトし忘れたものがあったのでPCルームで印刷しました。ブログのページページ保存をしたのをUSBにコピーして印刷可能マシンで読み込むのですが、CSS(レイアウトを司る)部分がうまく反映されず画面で見た通りにならず崩れてしまうのが難点です。
とその窓から小さい客船を抜かすのが見えたので、再び12Fに駆け上がりました。船名は「VIA AUSTRALIS」でチリのアウストラリス(Australis)というクルーズ会社が運航する船でした。パタゴニアのフィヨルドや氷河、ホーン岬を巡る探検クルーズをやっています。船籍港はバルパライソと書いてありました。
本船はこの年に大規模改装を経てリンドブラッド・エクスペディションズ(Lindblad Expeditions)に転籍し、「NATIONAL GEOGRAPHIC ENDEAVOUR II」2020年現在はガラパゴス諸島クルーズに就航しています。
2005年に建造されたまだそんなに古くない船ですが足は遅く、飛鳥Uはあっという間に抜き去って10分もたつとかなり後方になりました。


昼は5Fの釜上げうどんが捨てがたかったのですが、夫が11Fと言うので12時半過ぎにリドカフェに向かいました。

そうしたら珍しく酢豚があって、巷ではありえない程の肉比率(大)でした。とても美味しかったので、11Fにして良かったです。このぐらい肉感のある酢豚を5Fのメインダイニングの中華の日に出してもらいたいと思います。
部屋に戻ると左舷に町が見えていました。飛鳥UのGPS地図には何も表示されていませんが、後日調べたらチリのプエルト・ウィリアムズ(Puerto Williams)という海軍基地のある小さな町でした。
世界最南端の都市(city)として有名なのはこれから行くアルゼンチンのウシュアイアなのですが、緯度的にはプエルト・ウィリアムスの方が南です。規模的にこちらは町(town)で最南端と名乗るには弱いようでした。
その後2019年に町から都市に昇格したため、世界最南端の”都市”は晴れてこのプエルト・ウィリアムズになりました。ただしプンタアレナスから見たらウシュアイアも町扱いのようで、しかも大陸ではなくてフエゴ島だしと「世界最南端」を名乗るのはなかなか大変なようです。
オモテに様子を見に行きましたが、あまり変わり映えはなく、すぐに中に入りました。
13時半になり、入港予定時刻までは3時間となりました。夫が決めるジョギング開始時間は終日航海日以外はかなり流動的ですが、もし今日走るのならそろそろ走った方が良いように思います。

14時頃オモテでウシュアイアが見えているらしいと誰かに聞いて、8Fオモテに向かいました。天気が悪いのであまりよく見えませんが、2時間半後の着岸ということは沖で時間調整をするのでしょうか。
【画像はクリックでズーム】

14時からは写真家の中村康夫トークショーをやっていましたが、入港に間に合うよう走っておくことにしました。風が強くて寒いので久々のマシンです。
と、マシンで走っり始めてすぐの14時半頃、船長から予定より早く15時半には着く見込みだと案内放送がありました。なぬ!と思っても途中で止める訳にはいかず、夫と二人15時過ぎまで40分走り続けました。
終わって16時10分ごろに部屋に戻ると、かなり近くなっていました。ここは夫に先にシャワーを浴びてもらって、カメラと共にオモテに行ってもらうのが正解と送り出しました。
そしてサクっとオモテに行って撮影したのがこの着岸直前の写真です。時刻は16時24分になっていました。支度に時間がかかるから、と自分が先にシャワーをしてもこの時間にオモテには行けなかったので良い判断でした。

このまま桟橋に入船着岸する模様です。同じ頃シャワーから出てTVの船首映像を撮影しました。

隣には高級船「シルバー・エクスプローラーT(SILVER EXPLORER)」、その前方には飛鳥クルーズがチャーターした「シー・エクスプローラー(SEA EXPLORER I)」既に待機しています。
行き足は0.3ノットとほぼ止まっていたので、残念ながら入港の儀を見逃してしまいました。早朝に起きられなくて自分の意志で見られないのとは違い、入港1時間前の変更アナウンス(しかも早まる)はヒドイと思います。
この状態で急ぐのはもう無駄、と丁寧に髪の毛を乾かし、身支度を整えて15時40分過ぎに夫の待つ12Fオモテに向かいました。
入港シーンを見られなかったのは残念ですが、早朝だと起きられなかったりもするので気持ちを切り替えることにしました。隣の「シルバー・エクスプローラー」が気になったので、7Fに見に行きました。
そういう目で見るせいか、やはり飛鳥クルーズがチャーターしたフネより、こちらの方が高級船なので豪華に見えます。南極は寒そうですが、潤沢に資金があったら乗っても良いかも、と思いました。
ウシュアイアはノープランだったのですが、夫がいつの間にか情報通ご夫妻とその友人ご夫妻とでカニを一緒に食べに行く約束をしていたので、下見も兼ねて16時半頃下船しました。
そしてこのクルーズの記念としてもらった、「飛鳥Uオリジナルパルカ」を初めて着用しました。胸には二引き、右腕には日の丸のワッペンがあり、両方とも「ASUKA CRUISE 2015-2016 ANTARCTICA」の刺繍も入っています。
桟橋の所は強風の厳しいコンディションだったのですが、これは暖かいです。というか時に暑いくらいです。飛鳥Uの横では「TAGA BAY」という小さなコンテナ船が荷役をしていました。
桟橋にはちょっとしたみやげ物屋があったので、町に何もない場合でも最悪ここで物資を色々調達出来そうです。
マルビナス諸島の領有権に関する文章がスペイン語と英語で書いてありました。フォークランド諸島として知られているこれらの島々は、アルゼンチンの領土であり英国が不法に占拠している状態にある、と書いてありました。

1982年のフォークランド紛争当時はロンドンに住んでいたので「Falklands crisis(危機)」から「conflict(紛争)」に変わったのを高校生なりに大変だと感じていました。とは言え遠地の話、と身の危険は感じませんでした。

飛鳥Uの前にはトロール船がいたのですが、船名はTAI-AN(大安?)と怪しいチャイナ船かと思ったら1999年からアルゼンチン籍の船でした。前の名前は第28大進丸(調べたら1981年建造の極洋のフネ)であることが凹凸からわかりました。

【左の画像はクリックで拡大】

まずは近場のツーリストインフォメーションで地図をもらい、賑やかなカントリー音楽が流れていた一角に行ってみました。手造り民芸品やみやげ物を売っている小店が沢山あり、まずは寄港地マグネットをゲットすることが出来ました。「Ushuaia」のほか「fin del mundo(世界の果て)」と書いてあるのがポイントです。
他の店にはポケモンのピカチュウ的な手作りのかぶり物があり、日本発のポケモンがこうして世界最南端の都市にまで広がっていることに感動しました。
「USHUAIA」と書いてある道路の案内標識の所で、記念写真を通りがかりのカップルに撮影してもらいました。国道3号線(RA3)で首都ブエノスアイレスまで3,094kmとスケールが大きいです。またこの部分はパンアメリカン・ハイウェイ(南北アメリカ縦断道路構想)の南の終端でもあります。
その後何となく海岸沿いに飛鳥Uから見て右の方に進んでいると、もう一本山側の道の方がずっと雰囲気があるから、と観光客らしい女性がわざわざ教えてくれたので、坂を上ることにしました。行く途中ホテルアルバトロスというまるで飛鳥クルーズの地上店のような宿がありました。

【画像はクリックでズーム】
坂の上の道はサン・マルチン通り(San Martin)で、イメージとしてはアラスカのケチカンのような雰囲気の、いかにも私達を含めた観光客が喜びそうな街並みでした。シーフード料理屋や角の黄色い建物は「BANCO PATAGONIA(パタゴニア銀行)」と地元感タップリです。
銀行の建物の4階の端にはカモメとそれを威嚇する猫の置物がありました。遊び心があります。

道沿いのショッピングモールの入り口にある謎の赤い人型は、フエゴ島の先住民の変わったボディペインティングです。普段は限りなく裸で暮らしていたセルクナム族(Selk'nam)の、日本でいう成人式(El Hain)用だそうです。先ほどの民芸品街には海外では珍しい顔出しパネルがありました。

実物大の人形の展示でフエゴ島の歴史を知ることが出来る、テーマ博物館(GALERIA TEMATICA)というのもあって、建物からしてなかなか面白そうです。

が、日本語のガイドがないのはまぁ我慢するとしても、チャイニーズのガイドがあるところについムっとして却下しました。値段は10ドルぐらいだったと思います。
それから「監獄と海事博物館」の前まで行ったところで、夫が急に引き返すと言い出しました。
トイレにでも行きたくなったのかと思ったら、夕食の集合時間(飛鳥Uでローカルショーが終わる19時半)の前にビールを飲みたいからだそうです。まあ一度は戻る必要があったので素直に従いました。
港の割と近くの海沿いの道に、エヴァ・ペロン(エヴィータ)の胸像がありました。船へ急いでいたのでささっと写真を撮影したのみでした。
18時過ぎに桟橋まで戻って来ると、ちょうど高級船「シルバー・エクスプローラー」が出港するところでした。ウシュアイアでこのフネを見送るというのも得難い体験です。
飛鳥Uでは1回目の食事の最中です。念のためメニューをチェックすると、オール魚介類の和食*でした。部屋はすっかりターンダウンがしてありましたが、今夜はこれからが本番です。

*烏賊の酒盗和え、蟹 〆鯖 赤貝 十六酢ゼリー掛け、かます酒塩焼き、メバルの唐揚げ 卸し餡かけ、御飯豚汁香の物、葛きり(世界最南端の都市で大変贅沢なラインアップですが、これでは力が入りません)
夫は一番搾りを、私は昨日プンタアレナスで仕入れた6本組の「Cerveza Austral CALAFATE ALE」を飲んでみました。カラファテというのは固有名詞なのか、違うのか迷って買ったのですが、地名ではなくパタゴニア特産のフルーツでした。良く見たらラベルに樹に生った丸い果物が描かれていました。
19時からは折角なのでローカルショーを見に行ったのですが、いかにもな感じの地元の歌や群舞ではなく、おじさんが一人出て来て30分間延々と(知らない曲を)アコーデオンを弾き続けたのでとても疲れました。

やっと終わったので、情報通ご夫妻とその友人ご夫妻と3組で19時半過ぎに下船しました。シルバー船がいたところには昼間に抜かして来た「VIA AUSTRALIS」が着いていました。

実はもう1組私達の2011年来のご夫妻を誘っていたのですが、ウシュアイア到着後に気分が悪くなったとのことで、残念ながらご一緒出来ませんでした。後ほどわかったのですがどうやら陸酔いだったみたいです。
何となく先ほどのエヴィータ広場のところの坂を上り、一番賑やかなサン・マルチン通りに行くと、レストランで子羊の丸焼き(Cordero Asado)が焼かれており、その鯵の開き感に苦笑しました。この名物料理は飛鳥Uの寄港地紹介番組でセントージャ(タラバガニの仲間、centolla)と共に知ったのですが、今日は蟹が勝ちました。
生け簀のある蟹レストランはそこここにあるのですが、何となく海沿いの道にある一軒に20時過ぎ入りました。6人いたので心配でしたが、(当地では)まだ早かったせいかすんなり入れたのでホっとしました。
「VOVLVER(ボルベール)」という店名の入ったワイングラスには「principio Se fin del mundo(始まりは世界の果て)」と書いてありました。なかなかの雰囲気です。一同に「スペイン語期待しています」と言われ焦りましたがウェイターは「英語少しなら」と言ってくれたので、混ぜこぜで頑張りました。
ということで無事3組別々で会計してもらえることになり、まずは白ワインを注文しました。銘柄は一任されたので、寄港地紹介ビデオで折角ならアルゼンチンの固有種を、と紹介されていたトロンテス(Torrontes)の物を選択しました。
それから皆「いきなりカニ」モードだったので、飛鳥の乗船客で既に食べていた人と同じのを、と注文し1匹で二人前だと言うので計3匹を注文しました。

水槽から立派なセントージャを取り出し、撮影用に何度もポーズを取ってくれました。

蟹用の鋏が配られ、期待感が高まります。が残念ながらカニほじ器(カニフォークのこと。夫の知り合いが発したこの単語のインパクトに感動して以後使っています)は配布されませんでした。
白ワインが終わってしまったので、同じ銘柄の赤を注文しました。アルゼンチンを代表する品種マルベック(Malbec)で、本来は肉と合わせるのでしょうが、ここにいるメンバーはどちらかと言うと「アルコールが入っていれば何でもいい」タイプが多いです。
おしゃべりして待つこと20分、茹で上がって真っ赤なカニが大皿に盛られてやって来ました。これは迫力があります。ここからは蟹取り出しの儀になるため、会話は極端に少なくなりました。最初こそウェイターが「こんな感じで」と見本で足から身を外してくれたのですが、その後は自力で取らなくてはなりません。
切れないハサミで苦労して縦に切り込みを入れますが、普段蟹の足はパカっと半分ぐらい殻が取れていて、あとはお箸でも取れる飛鳥で甘やかされた身とっては、とてもつらいものでした。トゲも痛かったですが、防寒用に軍手を持っていたことを思い出し左手にはめました。
硬い殻に苦労しましたが、ついさっきまで生きていたカニの身はとても柔らかく美味しかったです。そして何とか割り当て分の1/2を掘り出して食べることが出来ました。このセントージャは日本語では南タラバガニと呼ばれていて、花咲蟹も同じ仲間です。身体の色とまん中辺のトゲの数で見分けがつくそうです。
21時半頃、飛鳥Uからの乗船客150名を乗せた南極探検船が出て行きました。汽笛が鳴ったので気付き、飛鳥UのメインマストにはUW旗(ご安航を、行ってらっしゃい)が掲げられていました。
蟹を食べ終わったあとは再び会話が弾み、3組別々に会計をしたあともずっと居座り続け、日没後1時間が経ってどっぷりと日の暮れた23時に店を出ました。とても楽しいディナーでした。
6人でぶらぶらと、海岸沿いの道を飛鳥Uに向かって歩きます。オーバーナイトで過ごす寄港地で、現地の食べ物を食べた後、我が家に戻るという体験は客船の旅でしか味わえません。

桟橋は相変わらず陸からの風が吹き抜けて寒かったですが、もうすぐ我が家と思うのと、特製パルカと、酔っぱらっていたおかげでそれ程辛くありませんでした。

部屋に戻るとまずは時間がなくてやっていなかった、洗濯物を洗濯機にかけました。そして乾燥機に詰め替えたいので終わるまでは待ちました。
GPS地図を見ると、飛鳥のチャーター船「SEA EXPLORER I」は順調にビーグル水道を東に向かっているようです。
洗濯機が回っている間に日付が変わった0時20分頃洗濯場に行くと、最後の脱水をしている所でした。5分程待って乾燥機に詰め替え、この時間なら迷惑はかけないであろうとそのまま放置しておくことにしました。
明日は朝一番でジョギングしようとしているのですが、就寝したのは1時近くになりました。最低気温が5度の予報なので、朝はとても寒そうです。