55日目 2月1日(月) ブエノスアイレス 入港7:15 出港24:00 日出6:12 日没20:00
寄港地情報入国審査言語英語通貨港の位置ツアー発時シャトルバス
-スペイン語少しアルゼンチンペソ割と中心部8:00~サン・マルティン広場
航海情報天候気温正午位置風向風速ジョギングデッキマシン陸上合計デッキ累計距離累計
晴れ22.0℃34-35S 058-22W東5m/s---0km805周429km
船内情報講演等イベント他船の揺れプール
--揺れないノーマル
ダイニングランチ(6F)ランチ(11F) リド夕食ドレスコードディナーギャラクシーラウンジ(19:00)
五島うどん洋食チキンソテーセットカジュアル和食ローカルショー
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは人口300万人の大都市なので、有名どころを巡るにはツアーの方が効率が良いだろうということで、「ブエノスアイレス半日観光(午前)」を申し込んでありました。

ツアーは8時過ぎ、入港は7時と早いので目覚ましは6時にセットしてありました。
相変わらずサクっと夫はオモテに向かい、まだ遠くのブエノスアイレスの様子を撮影してくれました。ギリギリ日の出前だったので、太陽が昇る写真も期待しましたが「撮らなかった」。水草が浮かぶ川面をタグボートがやって来る様子が撮影されていました。
私はダラダラと用意をし、まずはバルコニーに出てフネに近付いたタグボートを撮影したところ、偶然日の出が写り込んでいました。撮影した時には全然気付きませんでした。
オモテでは夫が朝日に映える客船2ハイを撮影していました。GPS地図に表示されていた「セレブリティ・インフィニティ」と「スター・プリンセス」です。
6時20分過ぎにオモテの夫とジョインしました。高層ビルが目に付き、41年前にサンパウロから訪れた時とはかなり雰囲気が違います。でも両親と妹と4人で来たブエノスアイレスに夫と、しかも本船飛鳥Uで来ることが出来て感慨深いです。
上空を旅客機が飛んでいるのも首都っぽく、前もこうして飛び立って下に海のようなラプラタ川を見たなあと思い出しました。この飛行機はフラッグキャリア「アルゼンチン航空(Aerolineas Argentinas)」のボーイング737型機で、番号はLV-FVO(737NG-800)と書いてありました。
ブエノスアイレスの港はコンテナターミナルがメインでのくし形で、一番手前に分譲型客船の「ザ・ワールド」が停泊していました。
飛鳥Uは櫛の先の広い部分で回頭し、後進して左舷着岸するようですが、予定の7時になってもまだ着きません。櫛の歯の向こうにはセレブリティ船と、その更に億にプリンセス船のファンネルがかろうじて見えました。
結局ちょっと遅い7時15分過ぎに着岸しました。朝早いせいか、大都市到着でオプショナルツアーに出る人が多いのか、今日はウィングの所に操船マニアが少なめでした。オモテでのワッチは意外と寒かったので、念のためウインドブレーカーを羽織っていて良かったです。
朝ゴハンはパームコートで軽くでも良いかと思ったのですが、夫の希望で11Fリドカフェに行き外のデッキで食べました。

夫は割としっかりめに、私は好物のナスのトマトソースチーズとアップルデニッシュ+焼きたてのアンコデニッシュが回って来たのでもらいました。

思ったよりも時間に余裕がなく、集合時刻を目掛けて6Fのギャラクシー・ラウンジに向かいました。暑さ寒さがわからずTシャツを着てリネンシャツ羽織りましたが、これでは暑いかもとツアーのエントリー後に部屋に駆け戻ってポロシャツに着替えました。
港はクルーズ専用ではないため、クルーズターミナルまでは巡回バスで移動して、そこで観光バスに乗り換えです。
ブエノスアイレス半日観光は3台のバスで催行されましたが、受付が後ろの方(集合場所に行くのが早めではなかった)ため、私達は3台目のバスでした。
9時ちょっと前にクルーズターミナルを出て、抜ける様な青空のブエノスアイレス観光が始まりました。

港から目と鼻の先にレティーロ駅があり、行先によって駅舎が分かれているようで一番手前に「RETIRO SAN MARTIN」と書かれた新しい駅舎、次にレトロな駅舎がありました。

しばらくは車窓観光で、バスは左折して7月9日大通り(Avenida 9 de Julio)に入りました。この名前の道はブラジルのサンパウロにもあったので、南米でポピュラーな日付なのかと思ったら、この日はアルゼンチンの独立記念日でした。

ではサンパウロに何故その日が?と調べたら、同じ日がサンパウロ州限定の「護憲革命記念日」でした。
参考:サンパウロの主要通り等の由来から歴史を学ぶサンパウロ主要通りの由来
右側にコロン劇場(Teatro Colón)が見えました。1908年に完成した歌劇場で、重厚な建物はヨーロッパからの移民の歴史を彷彿とさせてくれます。しかもパリのオペラ座、ミラノのスカラ座と並んで世界三大劇場に数えられるそうでした。
バスはそこで右折したので、長細い劇場の裏側の入り口が見えました。
まだ9時半になっていないので、どこに向かうのも道が混んでいました。ところで添乗している現地のガイドさんは日本人で、発音はとても綺麗なのですが、日本語の中身は怪しい感じでした。
バスは国家議事堂の前を通りました。1906年に完成したもので、こちらも重厚感があります。南米のパリと呼ばれる理由がわかって来ました。
バスは今度は7月9日大通りを横切りました。中央分離帯を含めて110mもある通りは、中央部にバス専用レーンがありました。
ほどなくバスは5月広場(Plaza de Mayo)に到着し、一行はバスを降りました。五月革命1周年記念の1811年に作られた「5月のピラミッド(Pirámide de Mayo)」がまず目に入りました。
そしてきつい逆光の先に大統領府(Casa de Gobierno;別名カサ・ロサーダCasa Rosada)です。別名はバラ色の館と言う意味ですが、牛の血を原料にこの色を出したそうです。反政府デモへの対策で建物に近付けないよう大分手前にバリケードがあったのは残念でした。
カサ・ロサーダと言えば、ミュージカル「エビータ(EVITA)」、エビータと言えばこのバルコニーで歌った(ことになっている)「アルゼンチンよ泣かないで」です。(そこしか知らない)サビの部分を頭に流して雰囲気に浸りました。
次に大統領府を背にして右前方にある、ブエノスアイレス大聖堂(Catedral Metropolitana)に行きました。皆とはぐれないようぞろぞろと歩いていると、ウシュアイアから南極クルーズに出た人たちがウシュアイアで下船し、空路ブエノスアイレスに戻って来ていたのとすれ違いました。
さすが首都の大聖堂の中はかなり立派で、見応えがあります。ドームの部分に「EGO VICI MUNDUM(われ世界を征服せり)」と書いてあるのが見えました。
この大聖堂にはアルゼンチンを独立へと導いたサン・マルティン将軍のお墓もあります。陸軍の儀仗兵2名に守られています。アルゼンチン生まれの将軍は、チリとペルーの開放も成し遂げたそうです。

という功績から棺はアルゼンチン、チリ、ペルーを擬人化した女性像に囲まれているそうです。ブラジル独立の英雄は知っていましたが、隣の国のことは全然知りませんでした。

数あるステンドグラス立派で、これは新約聖書の場面のようですがそこまで詳しくないので「キレー」で終わりました。告解場は何となく暗い感じがします。備忘:「TU ES PETRUS TIBI DABO CLAVES PASCE OVES MEAS」

折角はるばる地球の裏側まで来たので、1827年に建てられた首都の大聖堂の雰囲気をもうちょっと堪能したいところですが、駆け足半日ツアーのため僅か15分ほどで次に向かうことになりました。
大聖堂は5月広場の一角にあるため、その全貌は見づらいのですが乗り込んだバスが再び前を通ったので、12(使徒を表す12)本の円柱を見渡すことが出来ました。

バスはボカ地区を経てカミニートを目指します。サッカーの有名なクラブチーム、ボカ・ジュニアーズのホームスタジアム「ラ・ボンボネーラ(La Bombonera)」が見えました。

カミニートに到着するとまず案内されたトイレ(公衆ではなくカフェの私物。飛鳥のツアーが話を付けていたと思われる)に直行しました。トイレオバさんがいたので1ドル渡すと手拭き紙をくれるシステムでした。
ホっとしてみやげ物屋で寄港地マグネットを物色し、アルゼンチンが誇るマラドーナとメッシの間でポーズを決めました。マグネットのおつりの1ドルをペソの小銭に替えてもらおうと思ったら、職域が違うのか両替所に行けと言われたので2ドル分を25ペソに交換してもらいました。

それからカミニートと言えば必ず出てくる建物の前で写真を撮りました。飛鳥からの乗船客がひっきりなしにやって来るため写り込まないよう構図まで考えられませんでした。2Fから手を振っているのはブエノスアイレス大司教だった、現ローマ教皇のフランシスコです。

スタンドでオレンジジュースを買いました。4ドルはそこそこ高いと思いますが、その場で搾ってくれたので美味しかったです。
午前中なので見る方の調子も出ませんが、カフェの店先でダンサーがタンゴを踊っているのも見ることが出来ました。社交ダンスのタンゴとはホールドが全然違い、ものすごく密着しています。
50分程あった自由時間を最後は少々持て余し、川を眺めたりしてからバスに戻りました。左方面に二連の橋が架かっていましたが、調べたところ手前は「ニコラス・アベジャネーダ橋(Puente Nicolás Avellaneda)」という運搬橋で、戦前に建てられたものの未だ稼働の目途が立っていない何とも南米的な橋でした。
バスは12時過ぎに船とのシャトルバスの発着地でもある、サン・マルティン広場(Plaza Libertador General San Martin)に戻り、私達二人はここでツアーを離脱しました。欧州の通貨がユーロになって久しいですが「BBVA」(ビルバオビスカヤ銀行)の看板を見るとつい「スペインペセタの決済銀行だったなぁ」と反応してしまいます。
ブエノスアイレスでは是非と思っていた「丸の内線の車両に乗りに行く」企画を実現するべく、B線の駅に向かうことにします。数日前に船内の観光デスクで大体の位置は聞いてありましたが、念のため再確認してフロリダ通り(Calle Frolida)を歩き始めました。飛鳥Uでは「南米の治安の悪さ」から「なるべく単独行動は控えること」を推奨しているため夫は及び腰ですが、丸ノ内線だけは譲れません。
この道はブエノスアイレスで一番の繁華街のせいか、やたらと「cambio(両替)」と声がかかって鬱陶しかったです。1975年に来た時は両親が「闇ドル」という単語を口に出していたのがとても怖かった記憶があります。
時々スポーツ用品店に寄ったりしつつ、結局は収穫のないままコリエンテス大通り(Av. Corriemtes)との角にある、フロリダ駅に到着しました。下り階段の先に男性が座ってたりしたので一瞬怯みましたが、ここで躊躇するともともと乗り気でない夫に「それ見ろ」と言われそうなので一気に下に行きました。
自販機はないので窓口に行き、先ほど飛鳥デスクの人に教えてもらった切符の買い方会話を実践しました。「2 viajes(2枚)」と言うと1枚の券をくれたので一瞬訳がわからず身振りで「2人いるのに」と伝えると、もう1回通せばいい的に返されました。
そういうことか、と私がまず自動改札を通り、その切符を後続の夫に手渡して無事夫が通り抜けました。1乗車5ペソの均一料金で、出る時に切符を出す必要がないからこそ出来る技でした。ちなみにカミニートで2ドルを両替したのはこのためだったのでした。
そしていよいよホームに向かいます。ちなみにブエノスアイレスの地下鉄(A線)は銀座線(1927年)より早い1913年の開業と歴史が古く、このB線も古い部分は1930年に開業したそうです。
島式ホームに降り立つと、私達が乗ろうとしていたレアンドロ・N・アレム(Leandro N. Alem)行きの丸ノ内線はちょうど走り去ったところでした。
反対側のホームに回ると反対方向(Juan Manuel de Rosas)の列車が停車しています。懐かしい500形の赤い車両です。同じ標準軌だったものの、車幅は小さかったため隙間を埋めるための裾が取り付けられているのがわかります。

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あぁ本当に丸ノ内線だ、と走り去る列車を感慨深く見送りました。1995年にステンレスの02系にリプレースされたので、20年ぶりに動いている車両と再会したことになります。

その後待つこと5分、特別みすぼらしい車両がやって来ました。落書の消し方が乱暴で、独特の白い帯部分が膨張したような感じです。見るだけで満足ですが、ここは隣の終点駅まで乗ることにしました。
乗ったらぜひ見たかったのは東京メトロが営団地下鉄だった頃の名残です。扇風機の吹き出し口に「S」のロゴがありました。レトロでいい感じです。

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月曜日のお昼過ぎの時間帯、川岸の終点に向かう電車に乗っているのは明らかに地元の人達です。物見遊山で撮影するのも悪いなと思い、最低限に抑えました。

などとキョロキョロしていたらあっと言う間に次の駅に到着してしまいました。このまま引き返すことも出来るシステムですが、夫はここからぶらぶら歩きたい、と言うので従うことにしました。
戸袋が見えるのもレトロでイイ!です。窓の半分くらいまで白く塗られて外見は丸ノ内線感半減の、それでも中身は丸ノ内線そのままの車両番号「770」の旅でした。
地上に出て地下鉄の進行方向に進むと、ラプラタ川の運河沿いの小洒落た感じの遊歩道に出ました。プエルト・マデーロ(Puerto Madero)と言い、貨物船の大型化によって使われなくなった港湾地区が再開発され、レンガの倉庫街がカフェやレストランに生まれ変わった地区だそうです。

1975年に来た時に「△△丸」と書かれた日本の商船を見て「こんなに遠くまで」と感動したのですが、もしかしたらこの場所だったかもしれません。
時刻は13時を回っていて、朝食以降は何も食べてないのでさすがにお腹が空きました。「EL MIRASOL」といういい感じの本格的なレストランがあってメニューを眺めたものの、もし入ったら時間がかかりそうだと諦めました。

【メニュー画像はクリックで拡大】
帰りは川を背にしてコルドバ大通り(Av. Coldova)を進み、フロリダ通りの1本手前の道で右折し、アルゼンチンで一番ポピュラーなビール、「Quilmes」を買うために先ほど飛鳥デスクで教わった小さめのスーパーを目指しました。
「港で買えばいいだろう」と夫は非協力的ですが、港で売っているとは限りません。無事スーパを見つけ、ビールもみつけ、ついでにブラジルのビール「BRAHMA」もあったのでツマミと一緒にカードで購入することが出来ました。

ホッとしたこともありこの時点でかなり疲れていましたが、急げば間に合う14時発に乗らないことにしたため、トイレに行くためにモール「Galerias Pacifico」に立ち寄りました。食品は安く衣類は意外と高い印象を受けました。

フロリダ通りをサンマルティン広場まで引き返すと、プラザホテル(PLAZA HOTEL)の前に出ました。さっきは気付かなかったのですが、「前回1975年に来た時に泊まったのはここだったかも」とふと感じました。
1909年創業の由緒正しきホテルは、当時38歳とはいえ見栄っ張りだった父がいかにも選びそうです。後日母に確認したところ前に広場があるのなら多分それとのことでした。
シャトルバスの出発まではまだ30分以上あるので、ぐるっと公園を一周しました。向こうに見えている時計台は、イギリス人広場(Plaza de los Ingleses)にあって、独立100周年を記念してイギリス系の移民がブエノスアイレス市に寄贈したものだそうです。

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広場名の由来となったサン・マルティン将軍の堂々たる騎馬像もありました。兵士に守られたお墓といい、台座からして立派な騎馬像といい、まさしくアルゼンチン建国の英雄だったことが偲ばれました。
綺麗な建物だと思い撮影した建物は後で調べたらパス宮殿(Palacio Paz)でした。1902年から1914年にかけて建造された個人の大邸宅で、現在は軍隊の士官クラブと軍事博物館になっているそうでした。知っていたらもしかしたら見に行ったかもしれません。
最後に、残った15ペソを使い切るたためスタンドで絵葉書を買いました。綺麗に晴れわたった中、ツアーに丸ノ内線と充実した時間を過ごすことが出来ました。
シャトルバスの時間が10分後になったので、そろそろ乗り場に戻ることにします。既にバスが待機していたので乗り込みました。エアコンの効いた車内は快適で、しかも発車時刻を待たずにそこそこ一杯になったため早めに出てくれました。
手荷物チェックの列で隣に来たアメリカ人夫婦に夫が話しかけたら「自分達はスレイバリー(slavery:奴隷)クルーズだ」と言われ「どこのクルーズ会社なんだろう。そんなに酷いのかな」「セレブリティ(celebrity)・クルーズじゃない?」訛りのきついサウス・キャロライナ州の人達だったので致し方ないところですが、聞き取れなかった夫は少なからずショックを受け、残りの会話を放り投げてしまいました。

半分も聞き取れない英語の会話もまた旅の思い出です。その彼らとは港巡回バスの右と左に分かれて、それぞれ船に戻りました。

飛鳥Uの姿が見えると本当にホっとします。ドっと疲れを感じました。
舷門のところで記念撮影をしてから、15時半過ぎにフネに戻りました。1月21日・22日のウシュアイアに始まったアルゼンチン寄港シリーズは、今日のブエノスアイレスをもって終了しました。
乗下船口は5Fだったので、その足で夕飯のメニューをチェックしました。峰岡豆腐、かんぱち、鮪、蝦蛄のお造り盛り合わせ、かます胡麻味噌焼き、鰻蓮芋羹蒸し、鶏肉と筍の炊き合わせ、十五穀御飯、けんちん汁…、ブエノスアイレスでこれだけの和食は大変贅沢なのですが、これでは力が入りません。ダイニングは私達と同じ地元のビールを仕入れたようでした。
部屋に戻ると荷物を置いて、まず日本のdocomoに電話をしてパケットの契約を変更しました。「海外パケホーダイ」は日本の0時から24時間という運用(当時)だったので、12時間の時差がある場合は正午をまたいで2日分の料金が発生してしまいます。一方海外1dayパケは30MBを超えると速度制限がかかりますが、操作開始から24時間をカウントするので無駄な料金は発生しません。ということで総合的に判断し、後者に変更したのでした。
普段だとさっぱりと汗を流してからの流れなのですが、今日は朝からほとんど何も飲み食いしていなかったので我慢出来ず、そのままビアタイムになりました。乾いた喉にパタゴニアのビールが沁みます。
そしてゴハンは19時45分まで待てないこともあり、11Fリドグリルのチキンソテーに決めました。油抜きでもしてあるのか思ったよりもかなり淡泊でした。追加でソース焼きそばも注文し、ビュッフェコーナーからお刺身とサラダを追加しました。
みなとみらいご夫妻も偶然一緒になったので、ついつい長居をしてしまいました。
部屋に戻るとあと10分ちょっとで19時からのローカルショーという時刻でしたが、セレブリティの船が出港しそうな雰囲気です。ショーは断念し、夫はすぐに12Fオモテに向かいました。
一方私は「19時出港だろうからまでに出てくれば間に合う筈」、と清掃のため19時に一旦閉まってしまう大浴場でサッパリする方を選択しました。
結局夫は船が動きだすまで10分ちょっと待つハメになり、私の方はサッパリして夫にジョインしました。

ローカルショーを見られなかったのは残念でしたが、傾きかけた日差しを浴びて出て行く「セレブリティ・インフィニティ(Celebrity Infinity)」は一見の価値がありました。

【右の画像はクリックで拡大】

サウス・キャロライナからのあのアメリカ人夫妻も乗っている筈で、夫は「奴隷船て何のことだ?」と戸惑ったことを思い出して苦笑いをしました。
日の入りまであと30分ほどとなり、大分日が低くなりました。部屋に戻り、夫は日本に出すメール(の下書き)を作り始めました。
通常なら食べ始めたばかりのこの時間に夕食を終わってしまっていると、割と時間を持て余します。日の沈んだ様子を撮影にまた12Fに行きました。
夫は再開した大浴場に行き、その間に夫のメールを送信しておきました。というと一瞬の作業に見えますが、実際には「夫が作ったメール原稿(TXTファイル)をUSBで自分のPCに移す」「TXTファイルからメールを生成する」「指定された宛先を入れる」「ログインしてネットにつなぐ」「送信」といういくつものプロセスを経ています。夫のPCはXPマシンなので本船のネットに接続することが出来ません。
久々の寄港日で洗濯場が激混みだったので21時頃に開始したのですが、乾燥機は22時になってようやく空きが出たので詰め替えることが出来ました。
23時頃、オレンジ色の船体に白く「HAMBURG SÜD(ハンブルク ズュート)」と書かれた超巨大コンテナが後進で入港して来ました。「CAP SAN SOUNIO」というという船名で調べたら全長333m、幅48m、9,600個積みの超大物でした。
撮影のためにバルコニーに出ると、チャイナ製のストラドルキャリア(コンテナを運ぶ機械)が昼間より私達の部屋に近付いたためか、エンジンの爆音がかなりのものでした。
23時過ぎに、ギャングウェイを引き揚げていました。出港が遅いと甲板員の人達も遅くまで大変です。
出港15分前になったので、夫は7Fの反対舷(右舷)に様子を見に行きました。タグボートがスタンバイしています。
私は乾燥機が終わったことがわかってしまったため、日中着ていたポロシャツのアイロンをかけてしまうことにしました。途中入って来た人にアイロンの使い方を尋ねられてびっくりしましたが、ブエノスアイレスから乗った人だったのでしょう。
日付が変わった直後に部屋に戻ると、本船はするっと離岸したところでした。可能であれば早めに出港したいとキャプテンが夕刻放送していましたが、結局当初予定されていた時間になったようです。運航の人達も遅くまで大変です。
先ほどまで接岸していたコンテナターミナルがどんどん離れて行きます。皆が寝静まった深夜の出港は少し寂しいです。

明日の午後は川を挟んで隣国ウルグアイの首都、モンテビデオに入港です。終日航海日が多かったこのクルーズでは、寄港日が連続するとちょっと面倒臭い気分になります。