8日目 12月17日(木) ラバウル 投錨7:00 抜錨17:00 日出5:35 日没17:58
寄港地情報入国審査言語英語通貨港の位置ツアー発時シャトルバス
-英語ほかほぼ可キナラバウルヨットクラブ7:55 ~サービスなし
航海情報天候気温正午位置風向風速ジョギングデッキマシン陸上 合計デッキ累計距離累計
晴れ32.0℃04-13S 152-01E北西5m/s--- 0km98周51km
船内情報講演等イベント他船の揺れプール
--ほとんどないノーマル
ダイニングランチ(6F)ランチ(11F) リド夕食ドレスコードディナーギャラクシーラウンジ(19:00)
ざる韃靼そば洋食ステーキセットカジュアル和食パスカル・エリア&ポリーニョ・ガルシア コンサート
7時に入港予定なので、6時に鳴った目覚ましで半分ほど起きている最中に、夫は出足良く11Fに行ってしまいました。寝ぼけ眼でバルコニーに出るとあっという間にカメラのレンズが曇りました。湿気の多い熱帯の朝です。
スマホが久々に圏内に入ったので、電源を入れてメールをチェックしたところ、「dアカウント」の確認がどうのというメッセージや、ネットワークパスワードを入れろと促された後しばらく考え込んだりとなかなか使えるようになりません。電波状態が悪そうです。

スマホは諦めて6時40分頃11Fオモテにいる夫にジョインしました。右舷には火山(タブルブル山(Tavurvur)、日本名花吹山)が見え、うっそうとしたジャングルの島という印象です。

ほどなく本船はアンカーレッコ(投錨)を始めました。目には見えませんが、ゴツンゴツンと音を立てながらアンカーが下りて行く様子をすかさず撮影しました。
寄港国の旗を撮影するため、一旦12Fに上がりました。普段あまり目にすることのないパプア・ニューギニアの国旗です。
まだ朝早くてあまり食欲がないため、朝食はパームコートで済ますことにしました。それにしても飛鳥Uでまる一週間、日本軍がここに名にし負うラバウル航空隊を置いて戦ったと思うと感慨深いものがあります。
ツアーは8時に集合で、いつもギリギリの私達は少し早めにいつものギャラクシー・ラウンジに行くと集合場所はそこではなく、ハリウッドシアターでした。5分前にハリウッドシアターに入た所バッジの番号はEで、第一陣としては一番最後のバスでした。

8時過ぎにテンダーボートに乗り移りました。世界一周クルーズで初めてのテンダー乗船です。前回2011年は航路変更でサントリニー島などに寄らなくなったため、テンダー上陸の機会がありませんでした。

テンダーの汚れた窓越しに飛鳥Uを撮影しつつ、15分ぐらいで小さな桟橋に着きました。地元の子供達が珍しそうに見物するなか、ゾロゾロと上陸しました。
誘導されるまま、10人乗りぐらいの小さなバンに乗り込みました。かなり狭いです。
舗装されていない揺れる道を10分ぐらいかけて、まずは「南太平洋戦没者の碑」を訪れました。道中色々なことに思いを馳せて柄にもなくうるうるしてしまいました。
南太平洋戦没者の碑は昭和55年(1980年)に建立されました。厚生労働省のHPによると「中心の石碑は死者の霊の安らかなることを祈る心と、未来永劫にわたる平和を誓う心を型にしたもの」だそうです。
斜めになっている天井部分には赤く描かれた赤道の南北の海域の地図があり、ここラバウルの場所に穴が開いていて光が届くようになっています。奥の碑文には「さきの大戦において南太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」と書いてあります。
ツアーで用意された花を皆で手向けました。お線香を用意している人もいました。それにしても蒸し暑く、顔から出た汗で色々流れてしまって大変でした。

慰霊碑を背にして右の端の方に遠征すると、期待通りそこから本船飛鳥Uが綺麗に見えました。

【右の画像はクリックで拡大】

15分程の滞在後、次は山本バンカー(Yamamoto Bunker / Admiral Buunker)と呼ばれる、海軍司令部が置かれていた地下壕に向かいました。歩けるぐらいの距離で、9時ちょっと前に到着しました。
建物の反対側に地下壕の狭い入口があり、そこにゾロゾロと入って行きました。
すると思ったよりも広々とした空間がありました。壁は最近白く塗りなおしたようですが、ところどころ塗られていない場所は、日本から来た遺族の慰霊のメッセージでした。
通路は狭いので特に順路はなく、適当に先に進んでいたら現地の案内の女性が「山本長官が見た地図がこっちの部屋にある」と教えてくれました。そこにいた何人かが指差す方に上って行きました。

すると2〜3人しか入れないぐらいのものすごく狭い小部屋がありました。壁と天井にその地図はありました。

【「夜間戦斗機哨戒位置」と書いてある右の画像はクリックで拡大】

1943年4月18日、山本長官はここからブーゲンビル島に向かう際、暗号を解読した米軍によって撃墜され亡くなりました。その前の晩を過ごしたことから、山本バンカーと呼ばれているそうです。壁の地図は段々薄れていっていつか読めなくなってしまいそうでした。
バンカーの上には高射砲が残っていました。屋根があって、劣化を防いでいるようでした。
集合時間まではまだちょっとあったので、建物の方に戻りました。入口には現地の衣装を着た子供がいて、足下にはチップ用の小皿が置いてありました。
建物は戦前オーストラリア統治だった時に出来たニューギニア・クラブだったところで、火災のあと再建され現在はラバウル博物館になっていました。

日本軍の地雷や、ゼロ戦の残骸が飾ってありました。ほとんどの説明書きが英語でしたが、僅かながら日本語の表記もありました。

ゼロ戦の翼の近くには「ラバウル航空隊」の展示があり、先日夫が歌った曲が頭の中に流れました。この他、大東亜戦争開戦のわずか1ヶ月前に山本長官が受け取った司令など興味深い展示があったのですが、限られた時間内ではすべてを見る事が出来ず残念でした。
次に一行は火山観測所に行きました。入港する時に見えた花吹山の噴煙が良く見えます。
また、この位置からだと飛鳥Uが錨泊しているシンプソン湾(Simpson Harbour)は、カルデラ湾であることがよくわかりました。現地のガイドさんによると、温泉はあるが人は入らず卵を茹でるぐらいとのことでした。暑いのでもしかしたら日本人でもあまり入る気が起こらないかもしれません。
先ほどの慰霊碑のところより一段高い目線で飛鳥Uも綺麗に見えています。雲が多くなりコントラストが弱いのが残念でしたが、テンダー上陸地はこうして建物に邪魔されない姿を撮影出来る楽しみがあります。
10分程滞在している間に船の向きが少し変わりました。鏡のように穏やかな湾ですが、潮は流れているのでした。
バスはラバウル中心部を走る割と大きな(荒れた)道をを通り抜けて港を目指しました。窓越しに見る町並みはジョギングする雰囲気ではなく、夫も陸上で走ることを諦めたようでホっとしました。想像より小さい町だったのは、1994年の花吹山の噴火による降灰被害で首都機能が20km離れたココポに移転したからだったのでした。

市街地以外の道は舗装がなく、行きにも通りましたがものすごい水溜りがありました。あり得ないぐらいバンが傾きました。

桟橋近くの広場には露店が並んでいて、民芸品などを売っていました。欲しい物はなかったのですが、夫が「よし、今回も寄港地マグネットを集めるぞ」と言い出しました。前回2011年の時に「見つけ出して買う」のに非常に骨が折れプレッシャーだったため、私は今回見送るつもりでした。
露店の雰囲気からするとセネガルのようでマグネットが売られてる感がなく、初回からピンチでしたが何件か見て回って目的物を発見しました。マグネットには地名が入っていなければならないという自主ルールがあるため、それに合致するものは1種類しかありませんでした。協定価格のようでどの店でも4ドルでした。
広場の端までくると露店はなくなり、右には「Rabaul Yacht Club(ラバウルヨットクラブ)」と書かれた建物が、左には「RABAUL TRAVELODGE」がありました。ここに宿泊する観光客が来るのかとちょっと驚きました。
無事マグネットをゲット出来たので、これで船に帰れますが折角やって来たラバウルなのでもう少し粘ることにします。桟橋の脇の方から飛鳥Uを撮影しました。

【画像はクリックで拡大】
上陸してからまだ2時間ぐらいですが、ツアーを終えてみやげ物も買い終えたのか早々と船い戻る人達が見受けられました。再び戻ってくる確率の低いこのラバウルの地、もう船に帰ってしまうのは勿体ない気がしました。
と、船着場のすぐ脇で現地の男性達が竹筒やビニールパイプを束ねたものを、地面に配置し始めました。何かが始まるのかと、早めに目の前に行って待つことにしました。すると。
男性達が手に持ったゴム草履や靴のウラで筒を叩いて演奏を始めました。なかなか、リズミカルで味がありました。バンブーバンドと言うそうです。
飛鳥Uの乗船客のほか、観光客風の西欧人の一家がいたので年配の女性に話しかけてみたところオランダ人で、ポートモレスビーに住んでいる娘を夫と二人で訪ねて来たのだそうでした。

桟橋に用意してあった麦茶とジュースで喉を潤し、11時ちょっと前にテンダーに乗り込みました。先ほどの火山観測所が小山の尾根筋に見えていました。

テンダーの窓から飛鳥のオモテ部分が見えて来ました。このまま近付いたあとトモの方から右舷に回りました。
近寄るとやはり飛鳥Uは巨大で頼もしく感じます。11時過ぎにヒンヤリと快適な船内に戻り、荷物を置いてから開店したばかりのダイニング飛び込みました。

麺物 ざる韃靼そば
冷菜 海草サラダ
御飯物 根菜御飯 香の物

デザート ピーチこんにゃくゼリー

ラバウルという異国の地に居ながらにして、ざる蕎麦を食べられる贅沢に感謝しつつも12時前には食べ終わってしまい、14時からのローカルショーまで時間を持て余したので急遽泳ぐことになりました。
南緯4度の太陽にじりじりと焦がされながらも我慢して寝転がっていると、何だかハチが沢山飛んでいます。陸から距離がちょっとあるのに凄いなと思っていたら、夫がテニスコートの網のところに蜂が群れをなしているのを見つけました。先ほど来ホテル部門のオフィサーやクルーが12Fの通路を忙しく駆け回っていたのはこれが原因でした。
12Fに様子を見に行くと、安全確保のため先に進めないようになっていました。
ほどなく川上ホテルマネージャーほか1名がやって来て、完全防護の上さらに大きなビニールを被っています。厚いゴム手袋をはめて準備完了です。
そして両手に殺虫剤を持ってシューッと噴射しました。群れは徐々にバラバラになり、これで一安心です。

「ラバウル蜜蜂騒動(2015年12月18日)」
13時半頃引き揚げて大浴場に行ってさっぱりしました。帰りにテニスコートの様子を見に行こうとしたら、まだ「ハチが発生中のため」通行禁止になっていました。

14時からのローカルショーはまずモトロック諸島のナイフダンスでした。音楽が今風だったので今ひとつ緊迫感が伝わりませんでした。

一方後半のウィップダンス(鞭打ちダンス)は様子が違いました。ラバウルに住むトーライ族の伝統だそうで、この地域に自生するショウガ科の植物の茎を乾かして硬くした鞭で成人の儀式として男性がお互いを打ち合うものだそうです。
麻酔のようなものを塗っているので見た目程は痛くないと説明がありましたが、まだ皮膚の薄い子供は痛いんじゃないかと思ってしまいます。
ダンスと名が付いているものの、黙々と打ち合っていたのでギャラクシーラウンジは何とも言えない雰囲気に陥りました。「数年後には人権侵害とかでなくなりそうだな」と夫が呟きました。
ショーのあとは洗濯機を回し、それからビールの前にオヤツを食べにリドグリルに行きました。いつもよりお腹が空くのが早いです。本日のメニューは海鮮バーガーでした。
15時過ぎに部屋に戻り、そのままビアタイムになりました。冷蔵庫のパワーが弱く、乗船してから今までちょっとビールがぬるいなと思っていたのですが、昨日から製氷室直下で冷やすようにしたらキンキンに冷えました。
ビールを飲みつつ、先程知り合いからもらったラバウルの露店で何かはわからないけど買ったという果物も食べました。確信は持てませんでしたが、ランブータンという名前だと教えてあげました。中は白くて見た目も味もライチに似ています。
出港の少し前に11Fオモテのいつもの場所に行きましたが、離岸作業がないためか驚くほどギャラリーが少なくて少し寂しい感じでした。
アンカー(錨)は既に巻き上げてあったらしく、本船は定刻にするすると走り始めました。

左舷に日本の近海バルカー「海輝(KAIKI)」が佇んでいました。「N」のファンネルは日正汽船のもので、2012年に雄洋海運と合併してJX日鉱日石シッピングという風情のない名称となりました。

薄い夕日が沈みつつあるラバウルとシンプソン湾を後にします。様子がわからない最初の寄港地だったため上陸前はちょっと緊張していましたが、かつて日本軍がここにいたことを実感出来て良かったです。ワッチは17時45分に開きました。
前の日に配られた船内紙で今晩の夕食が和食であることはわかっていましたが、メニューはどんな感じかとダイニング前にチェックに行きました。隠元胡桃和え、お造り、海老と野菜の炊き合わせ、米茄子の肉味噌田楽と蛸、黒豆炊き込みご飯にきのこ汁…だと、メインディッシュがありません。
こういうこともあろうかと、リドグリルが夕飯時にステーキセットが出すのは船内紙でチェック済です。迷わずリドに行く前に、リドでは飲まずに済むように濃い目(9%)のチューハイを1本ずつ飲みました。
リドには18時20分頃上がりました。このクルーズでディナーをスキップしてリドに来るのは初めてです。2011年の時はサラダセットだったのが、今回はビュッフェ方式に変わっていました。

と、まずサラダを食べていたらあっという間に注文したビーフバーガーとステーキセットがやって来ました。

夫はゴハン、私はパンのセットです。この見栄え(というか感涙もののステーキ)は凄いです。
夫が「こりゃビールだな」とさっき飲んだチューハイの効果なく、ビールを注文しました。飲み過ぎです。
そしてステーキは期待通り美味しかったので、オカワリすることにしました。パンやスープはいらないので本体のみの注文です。
そして夫のアイデアで、カットしたステーキをゴハンに載せる(オンザライス)ことにしました。
19時過ぎに一旦部屋に戻り、途中からボサノバのショーを見に行きました。ギターを弾くブラジル人のポリーニョさんとは行動パターンが似ているのか良く会ってポルトガル語で挨拶を交わしていたので、1回ぐらい聴きに行こうと思ったのでした。なかなか良かったです。
上げ膳据え膳の本船で、唯一残る主婦らしい仕事が洗濯とアイロンがけです。ショーが終わってすぐに洗濯物の回収に行き、アイロンをかけました。
21時半頃の本船は、ラバウルのあるニューブリテン島と東にあるニューアイルランド島の間のセントジョージ海峡を抜け、次港ヌーメアに向け18.9ノットで飛ばしていました。疲れていたのでこのあとすぐに就寝しました。